他人によって記録された自分の姿は大抵滑稽に見えるものだ。それは他者を切断の中でしか観測できず、同様に自己を継続の中でしか確認できない人間の、それこそ滑稽な在り様に因るものなのだろう。
後輩のブログに登場する自分の姿を見て、そんなことを思った。数少ない個人的なケースからの推察に過ぎないが、いくらかの真実は含まれていると思う。
それに付け加えて、いくつかのことを書き記しておこう。『
けいおん!』という作品を―――少しの失望と退屈を噛み殺しながら―――私が眺めているのには理由がある。一つは、その体験が共有されるべき教養となりうるという、考えてみれば愚かしい理由だ。趣味が結果的に社会性を持つということと、趣味に有用性を求めるということの間には深い隔たりがあるということを了解しながら、それをやめられないのはもう蒙昧という名の病であると言わざるをえまい。それを考えれば、
律という少女を好ましく思うという、もう一つの理由の方が幾分可愛らしいもののように思える―――もちろん愚かしくはあるのだが。
そんな愚かしい人間が「正気」の鍍金を剥がされずにいるのは、この愚かしく、暗い時代には似つかわしいからなのかもしれない。だからだろうか、最近は「狂気」の眩しさに目を細めることが多い。
自分が書き記せる言葉の数が多くはない、ということは
Twitterに日々の些事を書き記すようになってからの更新頻度を見れば分かってもらえるだろう。しかし、ここに記されるべき言葉もまたこうしてある。その言葉を早々に見つけられることを祈りながら、今日はお別れすることにしよう。それでは。
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まあ僕は日本初のロック漫画「ファイヤー!」をお勧めするよ。